常用している黒革の手袋を外すと抜けるように白い肌を曝す。掌には刻み付けられ、途中で止まったままの墨一色で描かれた毒蛇の刺青。義兄は掌のそれを見下ろし、微かに嗤って眺めると緩々と頭を振った。
そして、小さく肩を竦めるとそっと流れる水路の水に掌を浸し、掬い上げるようにして軽く放るとぱしゃりと水が撥ねる。
水路沿いの家々、その所々に吊るされた様々な形の終夜灯代わりのランタンが撥ねた飛沫に淡い灯りを反射させ、泡沫の宝石のように煌いて、水路に落ちた。
義兄は紫水晶の瞳を眇めてその様子を眺める。
ゴンドラの船頭は、義兄のそんな様子にやれやれと肩を竦めて深い溜息を1つ吐き出した。
「……全く、良くもまぁそんなに色々と揉める事があるものだな?サフ」
船頭は櫂を器用に操りながら、ゴンドラの中でぼんやりと周りの景色を眺めているのか眺めていないのか判別し難い様子の義兄に声を掛ける。
「………ぅん…………」
義兄からの応えも風景を眺める様と大差なく『心此処に在らず』と言った様子のぼんやりした返事で、船頭であるニリは再び深い溜息を吐いた。
聞いてない……というか、聞こえてないな、これは--
先日、アクエリオにも世界の瞳の代理者--これが水神アクエリオだと言うから少々驚きだが……が現れた為、世界の瞳を利用すれば、長い道程を過ごさずともアクエリオに赴く事が可能になった。
この事は、今の義兄には余り良い事とは言い難いだろうが正直な話、ニリには有り難かった。
昔、アクスヘイムで暗殺組織のトップとして君臨していた頃から生き急ぐ傾向の強いこの美しくも脆い所もある義兄は、精神的に不安定になると益々生き急ごうとする。
常に生死の境界線をふらふらする事を望み、激しい緊張状態の中に己を置こうとするのだ。
昔であれば、死地に一人赴こうとしたし、今ならばギガンティアに単独で行こうとしたり、通りすがりに見掛けた不幸なエンディングを単身で阻止しようとしたり……兎に角、そんな風に自分を痛めつけようとする傾向が強く出る。
私達には犬死するな、と口煩かった癖に、どうなんだかな……
そんな事を考えつつもニリは器用に櫂を操り、ゴンドラは緩やかに水路を進む。
今回、ギガンティアに単独で向かおうとしていた義兄を引き留めて、無理矢理アクエリオに連れて来たのだ。
人やバルバの起こす諍いは時折あれども、マスカレイドを産むソーンが存在しない現在のアクエリオは、他の都市よりもまだ、安全だから。
ぱしゃり
また、水が撥ねる。
ぼんやりと撥ねた飛沫を眺めていた義兄が、不意に水路から手を引き上げるとゴンドラの床にころりと寝転んだ。
もそもそと手足を縮こまらせ、繭に篭る何かの幼虫のように体を丸める。
多分、当人は気付いていないだろうが、これも義兄の昔からの癖だ。
自分ひとりで感情や事象を処理しようとする時、義兄は内に篭る。その体現の形が今ニリの目の前にある。
『アスワド』の孤独--
代わる事は出来ない、許されない、人殺し集団の頭領故の、孤独。
片腕だの腹心の部下だの、そんな地位や立場は何の役にも立たない。
無論、義妹という『擬似家族』の立場も例外ではなく、役に立たない。
先代はどうだったのか知らないが、今目の前で丸くなり外界を遮断し自分だけで片を付けようとする義兄は、知識も情報も分け与えてくれた。幼い頃には、自分の分の食料さえ、分け与えてくれた……その義兄が分け与える事を拒んだ数少ないもの。その最たるものがこの孤独だとニリは思う。
分けて欲しいと思った。思い続けた孤独、それが今、目の前にある。
それなのに、自分達の何者をも受け入れず拒んだ孤独の傍に身を置く事が許された男はこの場には居ない。
義兄はそれを仕方の無い事だと笑う。細めた瞳に諦めの色を浮かべて、小さく笑う。
アクスヘイムの戦いの後、様々な工作の末に組織は解体され、義兄は自由の身になった。頭領としての立場も無くなり、自由の身となった義兄はそれでもまだ尚、孤独だ。
理解する事も、癒す事も、受け入れる事も、自分達に何一つ許さなかった義兄がそれを許したただ一人は今此処に居ない。
義兄が望むのがどのような答えなのか、朧げにしかニリには判らない。
けれど、それは当たり前の事なのだ。
ニリはニリであって、義兄ではないのだから。
それでも、判りたいと思う……
『アレ』は判りたいと思わないのだろうか?
考えてみるが、義兄の望みが朧げにしか判らない以上に『アレ』の思考は理解出来ない。判るのは、ただひとつ。
『アレ』の遣り様は、卑怯だ、と思う。
思う、だから『判る』じゃないな……この場合は『感じる』だろうか?
ニリはゴンドラが進む為に微かに立てる水音を子守唄代わりに丸くなる義兄を眺めながらそんな事を考えた。
ただ、望むのはお前達の幸せ-- それだけだよ
柔らかく笑んで、そう告げた義兄の言葉を思い出す。
義兄は考えもしなかっただろう……言われた自分達こそ、義兄の幸せを何より望んでいた事を。
自分達に分け与えられる事のない孤独。それを癒す存在の出現を、待ち侘びていた事を。
でもそれはこんな結果を見る為ではない。再び、孤独の中に身を置く義兄を見たくなどない。
笑っていて欲しいのだ。義兄が自分達にそう願うように、そう望んだように……自分達だって、ずっとそう願ってきたし、望んできたのだから。
その為に、今何をすべきなのか考えながら水路を巡ろう。
まだ、夜明けまでは充分な時間がある。
夜明けまでに答えが出ずとも……僅かでも光を見出せれば、今はそれで良いのかもしれない。人は簡単に変わる事は出来ない生き物だから。
義兄が以前よりはマシになったとは言え、未だに孤独を抱えているように……『アレ』も簡単には変われまい。
「だが、まずは一発蹴り倒す」
ぼそりとニリは呟いた。選ばれている事をちゃんと理解しているのか曖昧な『アレ』に一先ずは渾身の一撃を与える。
選ばれている事-- それが選ばれなかった者である自分にはどれだけの羨望なのか、悔しいから教えてなどやらないが……きっと、朧げにくらいは判るだろう。
一撃に込めた意味くらいは。
ニリ視点。
激しい夫婦(?)喧嘩の後、ある意味後始末する小姑のような……
ニリはおにーちゃん至上主義なので、とても思考が極端。
嫌ってないですよ、多分。
物凄くイライラはしてそうですけども。